有斐学舎編エピソード2

  前回、学生生活の中の記憶に残るアルバイトについての記述を展開したのであるが、一年中それにかかりきりの生活ではなかった。大学のゼミの仲間達とは映画やボーリング 麻雀、ドライブでもよくつるんで遊んだりしたし、文学の同人誌活動でも文章の出来を競い合った。そして約130名の若者たちが共同生活をする”有斐学舎”での生活があった。しかし一番夢中になって1,2年の頃通い続けたのは、4,5年後爆発的に流行り始めたディスコの前身の”クラブ”だった。さすが東京のど真ん中渋谷・新宿の繁華街だった。店名は確か渋谷が”パルスビート”・歌舞伎町が”馬酔木”であったか、立錐の余地もないほどの薄暗い店内は最新のミラーボールの光が眼を射るがごとく点滅し、腹の底にずしりと響く重低音が人間の太古の記憶を呼び起こさんかのように鼓膜と脳細胞をギリギリと揺さぶった。日本人とおぼしき若者達もそこそこの味を出して踊ってはいたが、横須賀辺りから流れて来るらしいアメリカの黒人兵士連中のステップと、しなやかで強靭な体から繰り出されるそのリズムを適格に掴んだジャングルの野獣のような動きには小生心底魅了されてしまった。まさにカルチャーショックであった。九州の田舎町のポット出の小生には華やか過ぎる場所ではあったが、世界にはまだ見たことのない場所や名もなき人々の中にも独創性に溢れた驚愕の個性をもった人間が無数に存在するであろうことをに直観させた。彼等の踊りの個性に何とか迫りたいと強く願ったが、無駄な努力であった。人類発祥の地と呼ばれる赤道直下の過酷な環境で何十万年も生き延びてきた彼等の生命力、奴隷狩りというジェノサイドに近い迫害をくぐり抜けた忍耐力、人種差別と貧困にあえぎながらも陽気に日々を送る生活力等々、没個性的な調和を社会的規範あるいは美徳としてきた日本の農耕社会と、彼らの獲物の獲得数イコール個性として評価される狩猟採集社会とでは異質すぎた。だからこそ生粋の日本人の小生は彼等の強烈な個性に夢中になってしまったのだろう。ともあれ、当時の小生が”黒人になりたい”と真剣に考えていたのは恥かしながら事実であるが、悲しいことに最近では1㎝の段差にもつまずきよろける始末で軽やかなステップどころ話ではない。しかし、あれから半世紀も経過した今でも心の奥底には当時の興奮がおき火のように燃え残っているのを感じることがある。たまに今日のような小ぬか雨が庭の木の葉を艶やかに濡らしながら静かに降り続く日があると、あの頃の情景が小生の内心のスクリーンに何の脈絡もなく浮かび上がって来たりする。そんな時はジェームス・ブラウンの”セックスマシーン”や、つのだひろの”メリージェーン”を聞きながら往時のあれこれを思い起こしながらタイムスリップを楽しんだりする、まだまだ少しだけ青さを留める昭和のがんこ爺々の今日この頃である。