かくの如く、諸先輩たちの親身な”オモテナシ”に感謝しつつ小生の東京での生活はまずまず順調な滑り出しを見せた。明治・大正の雰囲気を色濃く残す建物も多少の古臭さは感じたがそれほど不便さは感じなかったが、大学での同人誌の友人たち7,8人を案内したときなど女の子たちはキャーキャー騒いだし男性陣も目を丸くしていたので、部外者から見れば今にも天井が落ちてくるのではと恐怖に怯えていたのかもしれない。高校3年の時富士山に登頂したことがあり、その時知り合った若者に大学構内で偶然再会した時も、案内をせがまれて真っ赤なアルファロメオで寮まで送ってくれたが、廊下に足を踏み入れた瞬間から絶句していたのでそれ以降音沙汰がなくなってしまったのも推して知るべしか。とはいえ、小生の肌には寮自体も生活の流れも合っていた。。特に学生生活に重要なポイントとなるアルバイトに関しては種類別に仕切り役の先輩達や時にはOB達がいて、好き嫌いさえ言わなかったら選ぶのに苦労するほどであった。中華料理の岡持ちから始まり、結婚式場の配善係、団地の換気扇訪問販売、ガードマン、デパートの商品配達etc._。何故か、学生なのに家庭教師だけには縁がなかったが、一番肌が合ったのは俗にいう土方であった。体力の消耗は大きかったが、根が生真面目なので小うるさい指図もあまりされなかったし短期間でそこそこ稼げたるのは有りがたかった。強烈に記憶に残っているのは、かの成田空港が開発され始めた頃インフラ整備のために駆り出された突貫工事であった。太いワイヤーに吊り下げられたゴンドラで数十メートル程下ろされ、横穴を削岩機でドッドッドと突き崩しながら、そして高さ2メートル以上、重量5,60kの下水道の半円の分厚い下水管を2人一組で 組み立て嵌め込みながら延々と蓑虫みたいに前進していく過酷な重労働であった。大抵東北の出稼ぎ労働者の人達とタッグを組んだが”兄ちゃんたち学生はまんず力がねえべな!”とよく非力さをからかわれたが、東北弁と九州弁でよく会話が成立したものだと今にして不思議に思う。立ちしょんべんするその傍らに湧き出る湧水もお構いなしに飲んだりしたが、その重労働にあえぐ自分の姿を、当時東映の映画スターであった高倉健さんの理不尽な仕打ちに耐える姿に重ね合わせたりして自己陶酔にふけったものだった。深夜割増とか危険手当とか超過勤務とか色々手当てが付いたのだろう、額は失念したが何日か後に受け取ったその金額に大いに驚いた記憶が残っている。飯場から凱旋してくるとその時ばかりは安酒で盛り上がった。ビールがまだ贅沢品の時代である。殆ど2級酒しか飲んだ記憶がないが、たまにOBの先輩に連れて行ってもらったスナックにその少し前より出回り始めたサントリーの"角"なんかが燦然とキープしてあったりすると、口の中一杯に広がった唾液をのみ込みながら皆尊敬の眼差しでその先輩を仰ぎ見たものだった。