さて、前回まで小生の癌闘病について重苦しい雰囲気の記述が続いたが、今回よりガラリと趣向を変えて半世紀近く時間を遡って、それ以降の人生に多大の影響を与えた東京での生活を振り返ってみたい。
   昭和44年、高校を卒業して一浪後大学に入学し飛び込んだのが築80年以上経つという”有斐学舎”という熊本県人のための学生寮であった。特急寝台列車”つばめ”で20時間近く揺られ東京駅に降り立った時は、今後への不安と期待の入り混じった落ち着かない気分であった。田舎の町から出てきたばかりでよく寮の所在地までたどり着けたものだと今にして思うが、敷地に足を踏み入れてまず目についたのは、幹回り2m以上あろういう南国系の樹木に赤色のペンキで”造反有理“と大書されたスローガンであった。前年やっと終息したと伝えられた学生運動の名残らしかった。建物に入ってまず驚かされたのはその老朽さ加減だった。ギシギシ音を立てる廊下の両脇には整然と配置された小さなゴミやほこりが石灰で線を引いたように、薄暗い奥の廊下の突き当りまで続いていた。もう少し進み中廊下にかかるととんでもないものが目に飛び込んできた。建物の配置からしてどうやら中庭らしいのだが、陽に反射して白くきらめく紙屑の山が100坪ほどの中庭中に少なく見積もっても2m程は敷き詰められていた。1,2階の住人達が公衆道徳などはなから無視して窓から庭にセッセと投げ捨て続けた結果の産物らしかったが、青春真っ只中の青年たちの男臭い匂いがそこからユラユラと立ち昇るようでもあり、焦点をぼやかして全体を見渡せば白い薔薇の花を敷き詰めた演劇の舞台のようでもあった。かくして小生の東京での学生生活はこのような素晴らしい環境のもとでスタートしたのであったが、寮生活の最初の試練は新入生歓迎コンペとやらの、先輩たちとの親睦会の仮面を被って始まった。子供のころ婆さんの漬けた梅焼酎の梅をかじって育った小生は、酒にはそこそこ自信があったのであるが無残に打ち砕かれた。丼になみなみと注がれた2級酒をまずは駆けつけ3杯と2杯まで飲まされたのはのはおぼろげな記憶があるが、それ以降は強制終了したパソコンの画面みたいに意識がブラックアウトした。大学の授業どころではなかった。3日酔いという言葉さへ初めて知ったし、冗談抜きで死の恐怖さえ感じながら終日ゲエゲエ胃液を吐きながら、カルキ臭い水道の水を求めて廊下を何度も何度もヨロヨロと歩く新入生達の列が途切れることはなかった。

 4,5日後にやっと入院の運びになったのであるが、半信半疑というより、不信心には絶対の自信もつ小生がな・な・何と人智を超えた存在に対して薬の効果を祈ったのである。何と浅ましい奴なのだろうか。この数十年間、人に或いは社会に対して善行を施したことは自慢ではないが記憶にない。愚行に愚行を重ねながら転びつまろびつ大根おろしのようにあちこちをすりむきながら不甲斐なく年齢を重ねてきた小生の人生。たとえそのような絶対的な存在が仮に居たとしてもそんな虫のよい話を聞き届けてくれるわけがない、などと思いながら看護婦さんが渡してくれた薬のカプセル2錠を神妙に飲み下したのであった。  病院の夜は消灯時間が異常に早い。繊細な自分は今晩は多分一睡も出来ないだろうと勝手に決めつけていたが、羊を10匹数える間もなく眠りに落ちた。ふと目覚めると午前3時。6,7時間は熟睡したらしい。久々の満ち足りた睡眠であった。喉の具合からして、ここ2ケ月あれ程体力と気力を奪ってきた執拗な咳も多分1回も出なかったらしい。祈るような思いで何度か咳をし、ティッシュを口に当てたが毎度おなじみの鮮血は皆無であった。まさに奇跡の体現である。最初の薬が小生の体の中に入った時から3年間、1度たりとも変な咳が出たり鮮血が見られたことはない。そして、抗がん剤治療にはつきものの髪の毛が抜け落ちたり体重が激減したり、他の臓器までを傷めるいわゆる副作用も一切ない。翌日からは年齢なりの普通の生活が始まり、2週間程度で退院し仕事場に復帰したのだった。若い頃、バイクで車に追突して後ろに乗せた弟と一緒に空を飛んだ時ナマ爪を剥がすくらいですんだ事や、公道を深夜時速120km以上のスピードでチキンレースをしてあわや大惨事になりかけた時も決して奇跡などとは考えなかった。バイクの時など二人で大笑いしながら集合場所の遊び友達の家へ行き、包帯を指に巻きながら麻雀に打ち興じたものであった。空を飛びながらチラッと視界をよぎった空の青さや、他の枚挙にいとまのない獣じみたな身勝手さと馬鹿さ加減を内包した愚行の数々もこの年になると只々ほろ苦く懐かしく忘却の彼方からユラユラと浮かび上がって来たりするが、一見奇跡に近く見えたとしても決してそうではないことは明白である。真の奇跡には、起こり得ないことが起きた”意味”が必ずそこにあると昨今確信に至っている。小生が今ここに生きてあること自体が奇跡なのであり、自発的な使命さえ感じる。そして小生の一身にに起きた癌闘病の奇跡が促すものが何であるかの考察にも自分なりの結論を見い出している。しかしながら、その強迫的に促すものを成就するには幾つかの大障壁が立ち塞がり、どうやら未完のまま近々墓場まで持って行く可能性が高いとの予感があるが,出来る限りこのブログで成就に向けてチャレンジする小生の姿をお伝えできれば幸いである。次回からは、学生時代5年間お世話になった、かの“有斐学舎”での生活を面白いエピソードなどまじえて生き生きと活写できればと考えている。

 何しろ、100人の肺がん患者のうち2,3人しかいない遺伝子的形質を小生が持っているかもしれなく、そうであればその新薬は劇的な効果を患者にもたらすという。そのデーターに裏打ちされた”劇的効果”という言葉のなんという蠱惑的な響きであったことか。少々下品だとは思ったが、地獄にホトケ・猫に小判急がば回れなどの格言のフレーズが頭の中で何の脈絡もなくいくつも弾けたが、とはいえ本検査とやらにパスしない限り元の木阿弥である。いつもの癖で、”どのくらい待てば結果がわかるのか”等と詰問調で尋ねるのは思いとどまった。自分の不遜な物言いで、せっかく手に入るかもしれない幸運を逃すのを恐れるかのようにひたすら低姿勢に”検査の結果が分かり次第連絡をよろしくお願いします”と精一杯の念押しをして病院を後にしたのだった。
 しかしながら、この待つ時間の長さとその苦痛は尋常ではなかった。1週間待ち、2週間待ちしても病院からの検査結果の報告はやってこなかった。3週間目を超えた時ついに小生の堪忍袋の緒が切れた。その頃になると、すでに咳に出血がみられた。昼間は仕事に紛れてそうでもないが、就寝時になると待っていたかのように咳が頻発した。ティッシュに付いた鮮血の赤が小生にこれが現実であることを思い知らせた。直前にかすかな灯火を見てしまっていたが為に、かすかな希望にすがり、それが消えてしまいそうな予感に恐怖が何倍にも増幅したのであった。今思えば、小生の怒りを電話口で最初に受けた看護婦こそとんでもない災難であった。拡声器並に飛び出す小生の怒声は彼女の鼓膜を叩き震わせ、経験のすべてを総動員して私をなだめようとする彼女の試みを一切受け付けなかったし、次に替わった主治医に対しても舌鋒の矛先はキリとなって突き刺さった。何しろこちらは文字通り命がかかっているのだ。数分後に善処を約束した医師の声でやっと我に返った有様であったが、遺伝子形質検査にパスした旨の連絡が入ったのはそれから約10日後であった。

肺ガン闘病エピソード2

 あれから丁度3年の月日が流れた。当時の担当医師の説明によると小生の癌の進行状況は前述のごとくであるが、すでに外科的手術により癌細胞を除去する段階は過ぎており、治療のための選択肢は限られているとの由。束の間訪れた静寂の中に確かにチェックメイトの”パチン”という澄んだ音が鳴り響いたが、その間を振り払うようにつとめて冷静に聞こえるように、しかしながら自分の人並み外れた鋭い眼光で死の宣告を自らに都合の良い方向へ導く事ができるような裂帛の気を込めて医師に尋ねた。”それでは私の癌は末期癌ということですね”。返答を聞くまでもなかった。第4ステージと宣告されたのだ。それくらい自分で判断できたが、ただただ、自分自身が悲しかった。癌のことは勿論身に余るほどの大ショックではあったが、その時の本当の気持ちは医師の胸ぐらをつかんで”嘘だろう、勘違いだろうと言ってわめき散らしたかったし、その膝にすがって泣き叫びたかった。そして、この期に及んでも自分の本心をさらけ出せない自分が情けなかった。若い頃からこうだった、などととりとめのない想念を追いながら両肩は落ち、あれだけ眼力を発揮していた視線も自然に下方に彷徨い、彼と対峙してまだ5分もたっていないのに自分の体が一回り小さくなったような気がした。そして、小生の未来の運命を一手に握るその男性医師はおもむろに口を開いた。”あなたの癌は確かに予断を許さない状態にあります。4ケ所ほどに転移も見られます。しかしながら、あなたの場合1つだけ治療方法が残っているかもしれません。予備検査の結果、肺がん患者の2%程の患者に劇的に効果をもたらす新薬があなたにも適用される可能性がでてきました。少し時間をいただきますが、本検査にチャレンジしてみますか?”何という青天の大霹靂!還暦もとうに過ぎるくらい生きてきた小生であるが、これほどいきなり一度谷底に突き落とされて、頂上とは言わなくても再度3合目位までかすかにでも希望の灯の見える所まで急激に引き上げられたのは久方ぶりであった。それはまるで、かの大作家芥川龍之介描くところの”クモの糸”に救済される名もなき男の姿を連想させたが、それは後日、記憶を呼び起こした際の余裕のある状況での連想だったかもしれない。

肺ガン闘病エピソード1

さて、初回にて小生の肺がん罹患についてさりげなく触れたのであるが、今回はそのくだりからスタートしてみたい。
 ある日、朝目覚めた瞬間に喉の異常に気付かされた。喉の異物感が鬱陶しくてじれったかったが、几帳面な小生はまず母音の”ア”から発声を試みた。聞こえて来たのは弱々しい擦過音のみ。ご想像通り次は”イ・ウ・エ・オ”の順に試してみたが結果は全く同じ。家庭内別居中の妻を呼ぼうにも声が出ない。仮に呼べても既に仕事に出ているかもしれず、腹立たしいことに居ても無視されるかもしれない。一度仕事場に出て午後から耳鼻科の病院の診察を受けたが、総合病院の精密検査を薦められ、その総合病院からは大学病院の呼吸器科を紹介された。これがあの噂に聞く病院のタライマワシかと気付いたが、事ここに至って初めて”癌”という文字が頭に浮かびあがってきた。しかしながら、親族に癌にかかった人間はいないはず、仮に癌だとしてもまだ初期段階に違いないと、生来”キリギリス”型の小生はこの期に及んでもタカをくらっていたが、全身麻酔をかけられ肺から直接生体組織を取り出す検査を受けると、現在の症状は間違いなく非小細胞型の肺癌に罹患しており第4ステージの段階にあると判定された。あの時の主治医の声は今でも忘れられない。淡々と日常的に何処にでもある些細な出来事を告げるかのような平坦な声音。39歳の時会社の実印と個人の実印を預けていた最初の妻に決定的に裏切られたときでさえ生じなかった強烈なフラッシュが何度も何度も頭の中でさく裂し、そして記憶が飛んだ。ふと我に返ると、行き場を失くして迷子になった幼子のように自分の車の前に立っていた。

2020東京オリンピック考

その当時の身の丈に収まりきれない想念を抱え込んで日々苦悶していた幼子も今や70歳目前で、何と2年後には人生2度目の東京オリンピックが開催されるらしい。少々真面目過ぎる書き出しでのスタートになってしまったが、現在3年余りの肺がん闘病中のわが身としてはそこを目標として何とかして生き延びてそのいくつかの競技場に立ってみたいと切に願っている。もちろん、そこまで運よく生き延びたとしてもそれで必ず競技場のスタンドに立てるかどうかは別物である。爺々扱いされることにもすっかり慣れてしまった昨今であるが、まずは東京まで体を運び1週間、2週間程度の各競技の観戦に体力が持つかどうか。糖尿病も重なり、目はショボショボの白内障気味。歯はボロボログラグラの歯槽膿漏。耳は若い頃の60%ぐらいしか聞こえず一年中セミの鳴き声が止むことはなく,鼻に至っては積年の過度の喫煙によって鼻の粘膜を焼き切ってしまい,往年の10%程度しか機能しない有様である。各部門とも高齢者一般の水準をはるかに凌駕しており、もしオリンピックで高齢者肉体自虐レースなどが開催されるならぜひとも参加してみたいと思っている。又、それを仮にクリアーしたとしても、それを実行するに足りる経費をどう捻出するか。年金暮らしの身としては詰将棋の解をひねり出すよりはるかに難問であるが、御同輩の中にも東京オリンピックの現場に是非とも立ち会いたいと考えている方も結構多いのではなかろうか。中高年男性は紋付袴或いはタキシード、女性は日本古来の艶やかな着物姿或いはなまめかしいドレス姿で凛として会場に立つ。若い世代のラフな格好も良いが、いわば成熟した世代として盛装した中高年の男女がそこここにさんざめき、”只者ではない感”を漂わせつつさりげない会話を交わしながら開会式場にまさに集う。これこそ日本男女児此処に有り。そのシーンを目に浮かべただけで泣けてくる。老眼を極めた目は外界を鮮明に写し取ることが難しくなったが、心の目は最近良く潤いあまたの内省の心象を捉える。人は将来に対する夢や希望がほんのわずかでも見出せるなら、状況がどんなに厳しくても自分自身をさえだましながらでも何とか生きて行ける生き物であるらしい。今回で2回目の投稿(?)となったが次回以降、肩ひじ張らず我が越しかたの人生を行きつ戻りつしながら”怒涛”というか”爆笑”というか大後悔連続の小生自身の昭和の小話を体の許す限り投稿して行きたいと考えており、どうか読者諸兄の励ましの声はもとより、同情・憐憫・侮蔑の声等何でも受け付け中につき次回乞うご期待!

幼少期

小生は、日本のどこにでもありそうな人口10万人程度の地方都市に住む68才の立派な爺々である。西暦1950年の昭和25年生まれでもあるから「五の寅」と呼んで珍しがったりする御仁もいるらしい。生まれ年の数字みたいにキリの良い、整然とした性格に生まれつけば、もっと平坦でも実り多き人生の結実もあったのであろうが、これ又生憎屈託多き小生の人生がすんなりと収まる筈もない。半世紀以上も前になるが、13、14才位頃から自分の生涯はそう長くはない予感があった。今思い起こせば全く根拠のない、思春期を迎えた少年の自意識とか美意識とかの産物だったのであろうが、早世で完結する生き様に対するかすかな憧憬みたいなものもあったのであろう。それ以前の鮮明な記憶といえば、小学校にあがる前後にしばしば訪れたあのとてつもなく物哀しい死生観に関する想念だ。気付いた時には既にその想いで頭の中は溢れかえり沸騰さえしてさえいるのに、片隅では妙に森々として物哀しい自分がそこに居た。その内容たるや6,7才の幼い子供の思考とはあまりにもかけ離れているようで小生としても気が引けるのであるが、ここは自分自身を語る時の核心の部分であるので記録にとどめておきたいと思う。それはかた苦しい言い方をするなら、自身の死後のこの世の有り様についての考察であった。自身の死については実感の伴わない知識として小指の先ほどの理解は確かにあったし許容さえもしていた。それでも我慢がならないのは、自身の死後の世界が必ずしも穏に未来永劫にわたって続いてゆくものでではないという事実に幼いながらも何処かで気付いていたのだろう。年端もいかない年令からしても哲学や宗教的な洞察からきたものでないのは間違いないとしても、自分の死後の世界が永遠に平穏に続いていくものではなく、必ず終末を迎える存在であることが何故か既定の事実として頭の中に刷り込まれていた。自分の死後の世界の、一切の生命活動を停止して全き静寂のなかに永遠に漂う今生の世界━━━。時を選ばず不意にその想念は頭の中を占領し、幼い小生を恐怖に陥れたものであったが、不思議なことにそのことを遊び仲間や親兄弟にさえも打ち明けた記憶がない。あれは何時の頃か、ムンク「叫び」を雑誌か何かで初めて目にした時、不思議な感動と共に幼かった頃のあの当時の想いが鮮明にフラッシュバックしたことを思い出す。